ジークの雑録日誌

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ラノベの販売戦略に関する私見

前回の記事にも書いたようにラノベ市場では異なるレーベル間において価格競争が多くの場合においては起こらない。理由は読者のラノベ購入に関する効用(満足度)が著者の文章力やストーリー構成力(作品の出来)に依存するためである。

 

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 価格の高低は作品のページ数にも依存するが、その場合作品固有の価格になるためレーベル間の価格競争にはあたらない。レーベル間で価格競争が起こった場合でも50~60円の価格差になる場合がほとんとである。(ページ数がおよそ同じであるばあいのみ)

 10~20代を読者層として設定しているため文庫本で販売されることが多い。若年層にとって最も購入しやすい価格帯であるからだ。このため価格競争は起こると読者が作品を購入しなくなったり著者の収入(印税)が少なくなったりして執筆を辞める可能性がある。

 著者が収入を最大化するために必要なことはなにか。ラノベにおけるジャンルの市場調査である。ラノベにもジャンルが存在する。無数のジャンルの中から売れ筋のジャンルを選び、売れ筋ジャンルの中で最も売り上げの高い作品について研究すればよいのである。著者の独自性を出すために文章力やストーリー構成力を磨くのは当然だが。

 ラノベ作家こそ高い市場調査能力をもつことが求められている。

ラノベが売れないのは誰のせいなのか

小説という商品はジャンルが同一のものであっても文章力や物語の内容によって差別化が図られている。著者(出版社)を売り手とするならば売り手独占だと言える。買い手(読者)にとって自分の欲しい小説は著者によってのみ提供されるからだ。たとえテンプレ的な作品であってもそれは変わらない。
ここでラノベの場合を考えてみよう。ラノベ読者が本を選ぶ基準は主に2つだ。本の内容か挿絵のいずれかである。ここで重要なのは読者がどのような基準で本を選んだかということを著者は知ることができない点である。だから出版したラノベが売れないとき著者か絵師のいずれに責任があるかという無意味な論争が起こる。
これは著者が読者の需要するラノベを生産出来ていないために起きる問題なのである。要はリサーチ不足なのだ。
某元作家が絵師の宣伝不足のせいで自分のラノベは売れなかったという主旨の発言をし物議を醸した。これはまったくもって傲慢な思い違いだと言わざるを得ない。明らかに著者の力量不足だったからだ。文章力とストーリー構成力さえあれば売れ筋の主流から外れていても売れる。読者層が限られているからこそラノベの売れ筋調査が重要なのにそれを怠ったうえに売れないと絵師の宣伝不足のせいにするという姿勢はいかがなものだろうか。小説は面白ければ電子書籍だとしても売れる。後発レーベルでも売れる。売れないという事実を関係者に当たり散らすことは最も恥ずべきことなのだ。
次回はラノベの販売戦略について考察する。

小説(挿絵なしの大衆文芸)とライトノベル(挿絵ありの青少年向け小説)の相違点に関する考察

私は小説が好きだ。ラノベも好きだ。この2つ主な相違点は読者層の違いと挿絵の有無だと考えている。細かく言えば文体、文章表現の違いが挙げられる。今は文庫レーベルが豊富にあり小説とラノベの境界線がはっきり分かれていることが多い。

 ラノベは小説に劣りオタクが読む小説というのが世間の一般的な評価である。小説とラノベに共通することは『売れるものを書かなければならない』ということだ。しかもラノベのほうがより強くそれを求められる。なぜか小説よりも読者層が狭いため(需要がニッチ)だ。ラノベ作家のなかには「売れるものじゃなきゃ誰も得しない」という編集者の言葉にキレてしまう新人作家もいるらしい。作家は書きたいものを書くという信念があるため編集者と衝突することが多々あるのは仕方ない。しかし新人作家がすべき振る舞いではない。別に印税(作家の収入)がいらないなら商業出版をすべきではないし同人でやれば十分だ。ラノベというニッチな分野ならなおさらだ。

 ベテラン作家も書きたいものを書くということができずに苦悩した人もいる。シャーロックホームズシリーズで有名なアーサー・コナン・ドイルだ。彼はもともと歴史小説作家であった。歴史小説作家としては既に中堅の位置を占めていた。ドイルの編集者は自社の大衆文芸誌の売上を伸ばすためドイルに推理小説の執筆を依頼した。今でこそ推理物は人気のジャンルになっているが、当時の英国ではマニアックなジャンルの1つだった。まさに今日のラノベと同じ扱いを受けていたのだ。歴史小説で中堅作家の地位にあったドイルにとって担当編集者からのこの依頼が屈辱的な話だったことは想像に難くない。しかし推理物を書かなければ今後歴史物は一切掲載しないという脅しもあってドイルは渋々推理物の執筆を了承した。こうして名探偵ホームズが誕生したのである。皮肉にもドイルが熱意を込めて作った歴史小説よりも50倍近く売れたため(単行本売上比)ホームズの続編を書かなければならなかった。さらにホームズシリーズの印税だけで十分な収入を得ることができ本業の眼科医を辞め専業作家になれたのである。

 彼は英国推理物ブームの火付け役、ホームズの生みの親として歴史に名を残すことになる。要するに自分の書きたいものが書けないからと言って腐る必要は全くない。

TPPと2次創作文化の関係性について

 コンテンツ産業において2次創作というジャンルは長らくグレーゾーンだった。今回、TPPが大筋合意に至ったことで2次創作に関する文化は委縮することは必至だ。そこで今回はオタの祭典である「コミケ」を具体例に挙げどのような問題が起きてしまうのか解説していこう。

 「著作権法における非親告罪化」が挙げられる。従来、著作権法に関する法的措置(刑事罰)は当事者(権利者)の告発(告訴)がある場合において成立するものであり漫画やアニメ、小説その他コンテンツの権利者は当該作品における2次創作を黙認してきた。しかしTPPが適用されれば第3者による通報や警察の判断で2次創作の同人をする人たちに対して逮捕の手が伸びることは必至である。さらには損害のいかんにかかわらず逮捕者は法定賠償金を支払う必要が出てくる可能性もある。

 こうした動きに対して2次創作に関するガイドラインや2次創作を応援する「同人マーク」などがある。こうした動きがあってもそれを保障するの立法措置が無いというのが日本の現状である。

 

※これだけだと「1次権利者に実害が出てもそれを放置してよい」と取られかねない文章なので追記しておこう。一部のコミケサークルは2次創作の延長で非公式グッズ等で多額の利益を得ている場合がある。このような事例に対しては1次権利者の利益を損なっているので規制されるべきだと考える。あくまで同人文化とは趣味であって商業ではない。公式ガイドラインによってコンテンツごと管理を徹底すれば※より上に書いた事態は起きなくなる。

こうなれば2次創作に関する文化と1次権利者の利益を保護できる。

ラノベ作家、小説家で食べていくという生き方について

 「ラノベ作家もしくは小説家で飯が食っていけたらなあ~」と考える人がいると思う。小説には様々なジャンルがあってどれかの分野である程度売れれば食っていけることだろう。私は別の職種を目指している。にもかかわらずこんなトピックで書いているのには理由がある。

 ファンタジー系の小説を書いてとある新人賞に応募してみようと考えている。もう既にプロットは完成していて原稿の執筆を始めている。記念応募のつもりで書いているとはいえ、仮に賞が取れればうれしいものだし賞が取れればデビューも決まる。

 しかし小説家一本で飯が食えるほど業界は甘くない。だからベストセラー作家を除く大抵の小説家は兼業している。毎回ミリオンペースで売り上げるなら専業作家もいいだろうが現実は違う。そんなことを心に留めながら執筆に取り組んでほしいと思う。割と切実に。

今日はこの辺で

伊藤計劃という作家について

 前回は屍者の帝国について感想を書いた。なぜ伊藤計劃(以下伊藤氏と表記)について今回触れているのかといえば私が彼の熱狂的なファンだからだ。伊藤氏の作品と出会ったのは書店の平積みコーナーだった。普段は歴史小説くらいしか読まないのにそのときは何故か伊藤氏の本を手に取っていた。「虐殺器官」の1行目を読んで手の震えが止まらなかった。恐怖によるものではなく武者震いだった。

「小説の1行目を読んで武者震いを起こすなんて普通じゃねえよ」と思うかもしれないがそのときの感覚は自分にとって確かなものだった。心躍る作品だと思った。

 今まで歴史小説を買って読むか、ラノベを借りて読むくらいしかなかった自分がSF小説を初めて買って読もうとしていた。書店では買わずe-honで購入した。本についていた帯で映画化の事実を知った。虐殺器官(小説)の感想は別記事で書くことにして話を続ける。

 伊藤氏の作品を読んで真っ先に感じたことは、小説を読んでいるという感覚ではなく映像作品を見ている感覚に陥るということだ。無論、シナリオの形ではなく小説の形で書いているため脚本を読んでいる感覚とは異なる。伊藤氏の場合は4K画質の映像を見ているのではないかと錯覚するほど場面描写に秀でているのだ。今まで多くの小説を読んできたが、4K画質の映像を見ているのではないかと錯覚するほど場面描写に優れた作品を伊藤氏以外に私は知らない。彼が最高の書き手であったことは揺るがぬ事実である。

今日はこの辺で

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

屍者の帝国 感想

「伊藤氏円城氏の両名は日本を代表するSF作家である。SFの題材は屍者である。屍者という題材を通して意識や、命のありかについて社会に問いただしているような内容である。プロローグ後はすべて円城氏が書いている。氏の過去作品のどれよりも分かりやすい文章になっている。 理系向けだと書かれたレビューもあったが全く的外れだと思う。作品における論理や構成に文理の差異は無い。違いをあるとすればそれは表現技法である。作品の内容も示唆に富むものであった。読んで損は無い1冊である。」
私がアマゾンに書いたレビューです。

付け加えて言うならSFの殻をまとった哲学書です。そして1つのエンターテイメント作品であると言えます。筆者の紹介は別記事で書くことにして感想を続けます。作品のテーマはズバリ「命の存在証明」だと思います。舞台は19世紀、技術革新や欧米列強が覇を競っている時代です。死体を科学技術によって「屍者」として使役することが可能となった架空の歴史を題材にしています。そこでは生きている人間=「生者」の代わりに屍者が労働力として活用されています。主人公はホームズの助手ジョン・ワトソンです。ホームズに出会う前の話になります。ワトソンが「ザ・ワン」という屍者を探しにいく話です。

ザ・ワンが命のありかについて自らの見解を述べるところがこの作品の肝であると思います。
屍者の帝国 (河出文庫)

それでは今日はこの辺で